河﨑邸

継承完了

大正から昭和の初期にかけて関西で活躍した建築家、木子七郎設計による住宅建築である。鉄筋コンクリート造2階・地下1階で、外観は青緑色のスパニッシュ瓦葺屋根にアーチ型窓、開口部には装飾的な鉄格子を設けるなど、木子が住宅建築で多用したスパニッシュ様式でまとめられている。日本の伝統的な生活様式を重視した木子らしく、洋風のコンクリート建築に本格的な和室を無理なく設けた和洋折衷住宅となっていて、格式ある座敷のほか、部屋ごとに意匠を変えた寄木張の床仕上げ、動植物を描いた壁紙、照明器具や造作家具など、接収等を免れた室内の保存状態は極めて良い。かつて敷地の南隣に主屋となる木造の屋敷があったためであろう、本邸には食堂が設けられていない。なお、木子自身の署名がある1945年の履歴書には本邸の記載がなく、木子七郎に関する研究でも言及されていない。空白となっている1930年代の木子の住宅作品として、また戦前期大阪の優れた都市住宅として、極めて重要な建築といえる。

竣工年
1937年(昭和12年)
所在地
大阪市都島区網島町
構造・規模
鉄筋コンクリート造地上2階地下1階
敷地面積
486.66㎡(147.21坪)
建築面積
202.26㎡(61.18坪)
延床面積
377.76㎡ (114.27坪)
設計者
木子七郎建築事務所
施工者
竹中工務店

木子七郎(きごしちろう)(1884-1954)

宮内省の技師として皇室関係の建築に携わった父と兄をもつ木子七郎は、東京に生まれ東京帝国大学を卒業後、大林組に入社して来阪、ほどなく独立して建築事務所を設立。建築家黎明期の大阪において、和洋を巧みにこなす建築家として活躍した。国の重要文化財となっている萬翠荘(旧・久松定謨伯爵別邸)と琴ノ浦温山荘の他、愛媛県庁舎などの公共建築から学校、病院、事務所、工場、そして住宅と多岐に渡る建築を数多く設計した。

大川に面した網島町は、近松門左衛門が書き下ろした浄瑠璃『心中天網島』ゆかりの地で、明治期に藤田財閥をなす藤田伝三郎が、「網島御殿」と言われた広大な屋敷を構えたことで知られる。当邸は、その藤田家と道を挟んだ南側に位置している。
建築主の河﨑經吉(1874-1940)は、兄の助太郎と共に洋反物商を営み、日本毛糸紡績会社取締役を務め、モスリンを先駆けて扱うなど、我が国の毛織物の発展に寄与した人物であった。また河﨑家は当邸の南にあった和館の他、周辺にも土地を所有していた。
近隣に大阪砲兵工廠があったこの地域は、大阪大空襲によって藤田邸をはじめ大きな被害を受けたが、河崎邸は和館・洋館ともに戦火をくぐり抜けた。和館の方は戦後すぐに売却されて現存しないが、洋館の方は進駐軍の接収を受けることもなく良好な状態で残った。戦後、河﨑家は洋館を住まいとしていたが、世代交代などによって30年ほど前からは主に管理のみとなっていた。2022年から本邸を解体する建替えの計画が進められたが、家財などを整理するなかで本来の魅力が浮き彫りとなり、保存活用の方向に舵を切ることになった。現在、ハレの場が似合う当洋館にふさわしい活用が計画されている。